今週のお題「〇〇からの卒業」
こんにちは。ふでまりです。
合格発表の声があちらこちらで聞こえる中、桜香る景色が、それぞれのスタートを応援してくれるシーズン到来です。
このご時世ですから、嬉しいスタートラインばかりではないと思います。ここは、いつかは明けると望みをもって乗り越えていかなければなりません。
今回もお題記事です。
ふでまりの場合「40代からの卒業」です。
生きていれば当たり前にやってくるようなことをわざわざ文字にしました。それは、当たり前ではないから。
生きていれば、などと極端な表現をしてしまいましたが、こんなに物が溢れて、ポチッとすれば何でも検索できて、大概の物は手に入ってしまう便利な世の中の隙間で、今日一日を過ごせず生きることを諦めてしまう人がいるという現実。そして家族を巻き添えにしなければならないほど追い詰められてしまう人がいるという現実。ニュースで飛び込む悲報に、縁もゆかりも、会ったことすらなくても、聞き流すことができず今一度身を振り返ってしまいます。
今を進み続けて50年、「進む」ということができる環境に置かれていることに、まず、気付かされます。一見、自発的で積極的な印象も受けますが、いいえ、違うと私は思います。少し仏教的な表現になるかも知れませんが、生きているというより、やっぱり「生かされている」という言葉が、少なくとも今のふでまりにはしっくりきます。
ですから、40代とのお別れにはきちんと心の中で卒業式をし、50代との出会いには心を込めて、これからよろしくお願いしますと手を合わせる自分がそこにあるべきなのかなと、漠然とですが思ってしまうのです。
(庭の椿の花。昨年4月撮影)
節目の卒業がある意味は、形式だけのことではなく、家族や恩師、友人、あるいは地域で見守ってくださった住民のかたに対する感謝を表すため。同時に、卒業式という総括の箱の中身を肥やしにして、次の土壌を耕していく、なに一つ無駄ではないこれまでの経験を活かして、自分を更に育てていくことにあるのかなと、思いを巡らせています。
一般的なイメージでは、ちょうど「卒業」という言葉と一番距離を感じるのが、いわゆるアラフィフの時期ではないでしょうか。(偏見かも)子どもがいれば巣立っていき、もう少し歳を重ねると、孫の存在がちらつき始める、間ぐらいでしょうから。
一番縁遠くなってしまった「卒業」の二文字に、40代とお別れする思いを馳せて綴りました。
お読みいただきありがとうございます。
次回もぜひ、お立ち寄りください。
では、ごきげんよう。