こんにちは。ふでまりです。
平日の出勤が定着してきました。
それに伴い、土日の行動パターンも時間配分を考えながら「リハビリ・家の掃除&庭の草むしり・1週間分の買い出し・書道」と、固定してきています。
不思議と在宅ワークの時よりも、平日の夕飯の“きちんと率“も増えている気がします。
帰宅後、忙しいリズムのまま台所に立つと、その勢いでスピード調理をしてしまっている自分がいて、人の行動が気の持ちようだと言うことを日々実感しているところです。
その代わり、作ってひとたび座ると食べながら睡魔が襲ってきますけど(^_^;)
本当はヘトヘトで、気のせいかも知れませんが、土曜日のリハビリでは先生もこれまで以上に気にしてくださっている気がしています。
そんな中、先週の後半のある日の出来事です。
その前日に、事務所の一番若手の男性職員から、事務所の合鍵をまだ持っていないから、ふでまりの分とで2本作ってきて欲しいと頼まれていました。
夕方だったこともあり、鍵を借りる相手の職員も都合が良くないので、その人が日中の現場に出ているあいだに、私がその鍵を借りて作ってくるという話になりました。
翌朝、デスクの上に鍵は置いてありました。
頼まれるとすぐに行動に移さないと気が済まない性格の私は、早速任務完了!
現場から戻ってきた若手職員と、鍵の持ち主であるもう1人の職員にそれぞれ「合鍵を作ってきました」と「鍵をありがとうございました」を伝え、私も自分用に事務所の鍵を持たせてもらいました。
当然この時点では、キーホルダーなど付いていません。
「なくさないように気をつけよう…」
そう思いながら、ひとまず長財布の間に挟み込みました。
長財布の間に挟み込むって、どういうこと?ですよね。この時の行動が間違いだったと思います。
この日も気を張った状態で勤務を終え、帰りに卵を買いに近くのスーパーに寄り、帰宅後いつものようにスピード夕飯調理です。
帰って割と直後ぐらいだったと思いますが、合鍵を受取った事を夫に話しました。この時、現物を見せることまではしなかったのですが、なぜなのでしょう。いつもなら物があればそれを見せながら話なり説明なりするはずなのです。
中途半端ですが、そろそろこの辺で何があったのかお伝えします。
鍵を落としました(泣)
自分で言うのも何ですが、私はまあまあ神経質で、物の管理には特に気をつけています。
そんな自分が鍵を紛失するなど受け入れることができるはずもなく、そんな事実を知り青ざめたのは翌朝の身支度終了後、出掛ける直前です。
合鍵を確認しようとカバンをガサゴソ…
(…無い…)
(確か長財布に入れたような…)
(いや、カバンから見えている状態で隙間に挟んだか…)
(…無い…)
(カバンの底に落ちた?)
出掛ける前ですが、カバンの中身をすべて出し、一つ一つのポーチの中まで開け、ハンカチを広げ、カバンは上下逆さまにひっくり返し、制服のポケットもすべて手で探り、それでも見当たりません。
青ざめ始め、鳥肌が立ち、目の焦点も不確かだったと思います。
車の中も望みをかけてみましたが、残念。
実は鍵を作った日はかなりの大雨で、移動のすべてが小走りでもありました。
駐車場から事務所までの徒歩の道を、目を皿のようにして反射する物体に期待を寄せましたが、ゴミ一つ見つけることができず事務所に到着。
もう力が出ません。
地に足がつかない状態で、掃除機を持つ気にもなれず、デスク上の拭き掃除だけを終え取り敢えず自席に着きました。
入れた覚えのない両袖づくえの小引き出し3段を一応確認しましたが、動作だけ。
(報告、しなきゃ…)
そう思いながら、1カ所、どうしても確認したい場所があったので、そこになかったら報告しようと思いました。
午前中は雑用が本当に多く、あれよあれよという間にお昼になるので、そう言う意味では精神的に助かりました。
正午を迎えダッシュした先は、前日の帰りに立ち寄ったスーパーのレジです。
2つレジがあり、お客さんが並んでいない方ではなく、先客があるほうのレジを待ちました。
空いている方の店員さんは「え、なんでこっちじゃないの?」みたいな顔をしていましたが、私が昨日並んだレジはもう一つのレジだったから、あなたじゃないんです。
ごめんなさい(^_^;)
順番がきて、昨日と同じ店員さんに
「昨日の夕方こちらで買い物をして、鍵を落としたようなのですが…」
と言っている途中で、レジスターの横の小箱に手を入れた店員さんが
「あ、これね。はい。」
と、何事も無かったように、というか、よくある事よ、みたいなニコニコ具合で渡してくれました。
卵を買ってお会計で長財布を開いた瞬間に、取り敢えず挟み込んでいた鍵を落としたのでしょう。落ちる感覚も音にも気付かなかったのは、いまだに情けないです。
そして何より大反省しているのは、「取り敢えず」の行動をやめるということです。
自分の持ち物ならまだしも、会社のしかも鍵ですからね。
この場合は、せめて小銭入れのファスナーを開けてその中に入れておくべきでした。
今後あるかも知れない何かに気をつけよ!という知らせかも知れません。
気をつけます。
話を戻します。
「これです。ありがとうございます!」
と、胸をなでおろし、車に乗り込みました。
この時、本当に心身ともに重圧から解き放たれたようになり、身体中にダイレクトな血流を感じました。
それと同時に、心底「命拾い」をした気持ちで、何度も「ありがとうございます!」「ありがとうございます!」と言葉にしている自分がいました。
この時の感じとしては、言葉にしなければおさまらない、と言った感じです。勝手に出る、と言うか。
感謝は強制されてするものではない、とよく言いますが、「ありがとうございます」を言わずにいられない体験は、もしかしたら初めてかも知れません。
意外です。
こんなことでも無ければ、今までの感謝が心底の感謝だと思うに留まっていたでしょう。
私は、物心ついた頃から「ありがとう」の意識を教育され、しつけの厳しい家柄ではないのですが、事あるごとに感謝をするという習慣がついています。
でも、数日前の鍵の一件で、この50年の「ありがとう」の軽さに今更ながら気がついてしまっている自分がいることに、とても複雑な気持ちになっていることも確かなのです。
「ありがとうございます」は言うというより、「口から出てしまう言葉」とした方がニュアンス的にしっくりきます。
しかも、本当に本当に心から出てしまう時は「ありがとう」ではなく「ありがとうございます」です。
少なくとも先日の私はそうでした。
勝手に口から出ている言葉を、抑えられない、コントロールができない種類の“感謝”を体験し、今は良い意味で鳥肌が立っているところです。
人として生を受け、運良く言葉を発することができ、運良く感情表現も嫌いではなく、まだまだ捨てたもんじゃないなと五体満足に幸せを感じながら、今回の記事を置かせていただきます。
最後までお読みいただきありがとうございます。
次回のお越しもお待ちしています。
では、ごきげんよう。