約2ヶ月のご無沙汰で、その間に51歳を迎えてしまったふでまりです。
迎えてしまった、などとぼやきつつ、実は日々過ごせることに感謝せずにいられない想いも大きく、ぼやきの裏側の半分ぐらいは、51歳を迎えることができた、とその想いを噛み締めながら過ごしています。
それなりに歳を重ねたという証しでもあると思います。
そこで、ブレイクタイム的な文字で想いを表現します。
「あなたがいてくれて ここまでこれました」
いったい誰を想いながらしたためたのだろう…と書いた後で考える始末。
残念ながら、夫でも息子でもないようです。
支えてくれているのは、こんなにオバサン年齢でもやはり母でした。
親ばなれ子ばなれもできていないのだと思いますが、こうも思うのです。
離れなければいけないのでしょうか。
適度に距離を保ちながら、お互いが支えられていると感じながら歳を重ねていくことは自然のことだと私は思います。
ただし、適度にですけどね。
あまり近すぎるといろいろ重いですから。
世の中本当に色々な状況と向き合いながら人々は生きていますが、どんな人であれ、必ず「産んでくれたお母さん」はいた訳です。
様々な事情で、例えば母親に計り知れないほどの憎しみを抱く人も居るでしょう。
人は感情ありきの生き物ですから致しかたないことではありますが、おなかの子を嫌いだと思いながら出産する人なんてまず居ないはずです。
産んでくれる時、そこには必ず生まれてくる子への愛があったはずですから、愛されていないと感じている人たちも、そうでない人も「母への感謝」は忘れてはいけないと思うのです。
今一度、命の誕生の重さや素晴らしさを噛み締めながら、来月の母の日のプレゼントを準備することにします。
人生の後半に差し掛かり、ふと、感謝の気持ちが向いている方向を追ってみたくなった、久々の投稿でした。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
次回もお越しいただけましたら幸いです。
ふでまり